イングリッシュブートキャンプでシニアインストラクターとして指導しているトニー下山です。

私は1963年の6月にセントジョセフカレジと言うインターナショナルスクールを卒業致しました。

その後は上智大学の国際学部に入学致しました。国際学部には日本の高等学校を卒業した生徒はおらず、外国人及び20歳から40歳のbusiness personが生徒の殆どでした。授業は夜のみでしたので、昼間に働ける職を探してMontgomery Wardの東京支店に採用されました。 MW社は1871年にシカゴで設立された通信販売を最初に始めた会社です。その後 アメリカ全国に1,000軒近くの百貨店を展開しておりました。一般の百貨店との大きな違いは 販売している全ての商品が自社ブランドでした。

MW東京にはアメリカ人の総支配人以下約20人の日本人がおり、商品別に日本からの買い付けを担当しておりました。そのころの買い付け商品の主だった物は、女性、男性、子供の衣類、敷物、家庭用ミシン、陶磁器、それに玩具を含めた一般雑貨でした。家電製品も小物製品が少し出始めるかと言う時でした。東京を統括事務所とし、一二年後には大阪と名古屋にも支店をもうけました。日本人の男性社員の方たちは殆どが30歳半ばから四十歳代の商社及びメーカー出身の方たちでした。

そう言う環境の中で19歳の私の任務はtelexの送信・受信、朝東京丸の内にある中央郵便局での郵便物のピックアップ、夕方の書留、速達郵便物出し、その他もろもろでした。
その中でも私がもっとも興味を持ったのはtelexの任務でした。当時Chicago本社及びNew York衣類部門のバイヤーとの交信はtelexか手紙でした。国際電話は高すぎ滅多にかけられませんでした。事務所の各担当者からtelexの原稿を頂きテイプに切り替え送れる様に準備をする。担当者の中には私に英語のtelexを書くよう依頼してくる方も結構いましたので喜んでお手伝いもさせて頂きました。その日の夕方には20-30本位のtelexのメッセージを準備し、KDDにChicago やNew York事務所につないで貰う依頼をします。約1時間の内にはKDDより先方と繋がったのでテープを送信する。メッセージで特に興味あるもののコピーを作り バイヤーからの返信及びどうやってbusinessがまとまって行くのかを随分勉強させて頂きました。

各バイヤーは年に一度ないしは数回東京にくる人達もいました。その様な時に担当者が東京で取引先との商談がある場合一緒に連れて行ってくれる人も出てきました。
又、時には一人の担当者に2組のバイヤーが重なり 私に1組と一緒に商談のアテンドを頼まれる様にもなりました。

そうこうしているうち 2年後に総支配人より私も担当者になり玩具及び一般雑貨、運動用品、貴金属の買い付け任務を仰せつかりました。本社の玩具部門を統括していた本部長には随分可愛がってもらいました。玩具の商売で私が特に力を入れたのは その年の早い内から取引先がどのような新製品を企画しているかを調べ バイヤー及び本部長に連絡を取り 興味に基好き当社の留め型にして貰うか交渉したことでした。 即ち米国マーケットでは当社以外ではその商品は売られていないと言う事です。 日本より200点位のおもちゃを毎年買い付けていましたが、そのうち20点位が留め型でした。

本社では貴金属部門が時計を扱っている事を知り、日本からの腕時計や壁掛け時計にも挑戦しました。ご存知の様に、Seikoが1964の東京Olympicでのオフィシャル タイムキ-パ-でしたので、本社と掛け合い スイスやドイツからだけでなく 来日しSeikoからの購入も検討してもらいたいと依頼しました。
それが非常に上手く行き、初年度1万個以内の腕時計も数年の内に10万台近くまで増えました。又、掛時計も新しいquartzの機械を使わず、手巻きの機械と木製のケ-スで出来た商品が大変成功し、年5万代以上の買い付け品になりました。本社のバイヤーが来るにあたり、Seikoの方と骨董品屋を訪問し古い掛時計の写真を撮り、10種類のサンプルを用意し7機種制約出來、取引先にも大変喜ばれました。実際の生産出荷では随分安全な梱包の作成に苦労しました。何せ通信販売のカタログでも売られるので、ガラスが割れない様に梱包するのが大変でした。

玩具、運動用品、時計類を数年扱った後、家電製品の担当を仰せつかりました。最初はトランジスタ-ラジオに始まり、テープレコーダー、ステレオセット、CB,と音響製品が多かったのですが、video レコーダー、テレビ、更に洗濯機・ドライヤ-、小型冷蔵庫、電子レンジ、製パン機、更に窓かけ空調機器などの家電商品。これらの商品の中でもVideo, テレビ、電子レンジ、空調機器に於いては大変大きな数量の買い付けに関わり取引金額も非常に大きく、取引先からもトップ役員が商談に出てきました。まだ30歳そこそこの私が大会社のトップとお会い出来た事は私にとって色々な面で勉強になりました。

1970年代の始めにはU.S.ドルと日本円の固定為替レートが解消され注文していた商品の価格では毎日大変な交渉を行いました。円高は商品のみならず 会社の海外事務所にも大きく関わりが出てきました。海外事務所の責任者及び家族は皆アメリカ本社の経費で賄われていました。 円高はいずれ経費の大きな増額になる事が想像出来たので、本社は日本初め極東の各事務所を現地の社員に経営さすと言う大きな決断をしました。各事務所から候補者を選び本社で6か月間教育するとの事でした。私は他の候補者とは違い 家族を連れて本社勤めを79年、80年2年間すると決定されました。本社での主だった教育は1.販売店の勉強、2.私が扱っていなかった衣類や寝具商品の担当バイヤーのアシスタント、3.会社経営の勉強でした。大変勉強になりました。

他の極東事務所から呼ばれた社員は6か月の研修を終わらせ 各自国に戻りました。残念だった事は 一年を経たないうちにみな退職してしまいました。理由はアメリカ本社での6か月の研修が彼らに箔をつけ 他社からの誘いにより良い収入で転職してしまいました。

私は2年数か月の研修を終わらせ 1981年の3月に日本事務所に戻り福支配人としての職務を仰せつかりました。其の一年後の1982年には事務所の責任者として支配人に昇格させていただきました。1979年の半ばから本社は買い付けだけの事務所でなく日本法人を設立し商品の販売を企画、三菱商事を仲介に色々試しましたが、売れる商品は大型冷蔵庫、タオル類のみでした。

一方、買い付け額は益々おおきくなりました。為替の関係で日本の家電メーカーは東南アジア諸国に生産拠点を設け 私も頻繁に訪問いたしました。その後 私の立場も日本の責任者だけでなく、衣類関連商品以外全ての極東からの買い付け商品の取引を見る任務を仰せつかりました。韓国、台湾、香港、タイ、シンガポール、マレイシアの事務所に衣類以外を扱える社員を置き、シカゴ本社を含め大変海外出張の多い人生を過ごしました。

Montgomery Ward社は業績も良くなり大手株主がモ-ビル石油より幹部社員が会社を買い取りました。残念な事は2001年初めに会社を閉じてしまいました。取引大手を訪問し会社の説明をする中で、シャープより米国販社での営業担当副社長職のお誘いを頂き、2001年の半ばより2009年暮れまで働かせていただきました。

その後から現在は、イングリッシュブートキャンプのシニアインストラクターとしてプログラムの支援と受講生のサポートをしています。

是非皆様とイングリッシュブートキャンプでお会い出来ますことを楽しみにしております。